やっと書ける。かなり毒素が強めなので用法用量を守ってお読みください。そして全ては個人の感想です。また、WordPressについての何の知識も得られません。
…
すべて終わって、10年ぶりの朝帰り、みんなの感想をニヤつきながら読んで、実行委員の皆さんからのメッセージに泣かされて、ウトウトしてベッドでぼーっとしていたら、何か凄くデジャヴな感覚に陥った。
なんだろうかと思いながらまた微睡んで、夜、子ども達におやすみのキスをして思い出した。嗚呼、これはとても出産後の感情によく似ている。この達成感と虚脱感よ。お久しぶり。
と、いうことに気付いたと同時に、ああ全く、人生を賭してまでやることでは無いな、とは思った。酔狂にも程がある。
翻って、終わってからまだ1日弱の段階で返ってきたフィードバックだけでも凄い熱量で。全くもって賭しただけ、それだけの人との出会いと、やっただけの自信と信頼と、繋がった人たちからの望外の言葉をいただきまくっていて、後悔があるわけではない。後日刺されてしまったりしたらどうなるかわからないけれど、今の処は自分でも引くぐらい自分を褒めまくっているのでネガティブな感情があるわけでもないのだが、もう自身では次に繋げられないな、とはクッキリ見えた。
「すべてボランティアです」なんて許されない
そもそも、昨年参加していて思ったのは、何て無茶をしているんだろう、ということ。
ある程度のボーダーラインを引くための、実費の半額以下の参加費であっても、お金を取る時点でそれだけのフィードバックを期待して参加するのが普通の感覚の日本において、これだけ大衆化してしまった、と敢えて書くけれど、WordPressの公式イベントとして、一昔前と同じ内輪感覚で回してどうにかなるイベントなハズがない。運用の肝が個人に寄っているのはどんな組織でも見かけるしそういうものだと思うけれど、中の人の感覚と世間の評価のズレがやばい。これで事故らないほうがおかしい。
オープンソースナニソレオイシイノ?
「中の人」にも色々あって、他のソフトウェアとはちょっと違うのが、WordPressはパブリッシングツールなのでオープンソース文化に親しみのある層とは全く違う層からの参加者も一定数居ることだ。Mattの提唱する「Democratize Publishing」が実現している証拠とも言える素晴らしい多様性だと思う。
文化が違う、共通言語が無い、しかしコミュニティの一員である。
大学で生態学を齧った人間として多様性の大切さは一般の人よりは知っているつもりだし、WordPressコミュニティの厚さみたいなものの一端はここから醸成されているとも思う。
どう違うとしても人と人なのだから、ゆっくり会話をし言葉を積み上げ譲り合い時間をかけたら、信頼や関係は築くことができる。
とは思うけれど、半年のスパンでイベントをやる中で、初めましての人と探り合いながらなんとかパーツをかき集め、バラされたブロックを積み上げようとする度に、付き崩されるとやる気は萎える一方だ。
ボランティアは最早ボランティアじゃない
ボランティアについての説明として秀逸だと思ったもの。
単なる無報酬の奉仕活動という意味ではなく、自己の自発的・主体的な意思によって社会問題の解決や必要とされている活動を理解・共感し、勤労とは別に労働力、技術、知識を提供すること。「自由意思」を意味するラテン語のボランタスが語源。社会福祉協議会では地域福祉促進の一環として、ボランティアの需要と担い手に関する情報提供とコーディネートを行っている。ボランティア休暇制度を導入する企業もあり、学生だけでなく、有職者や退職後の高齢者の活動も増えている。近年、子どもの教育分野でボランティアの義務化や入試の評価に加点することが唱えられているが、その結果、義務的・功利的にとらえられることによってボランティアの本質をゆがめ、長期的に見ればその普及と活性を阻害すると危惧(きぐ)する議論もある。
(中谷茂一 聖学院大学助教授 / 2008年) 出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
無償である、ということがボランティアの定義として広まりすぎていて、だれも自発的・主体的という意味を憶えては居ない。
仕事より夢中になるような事柄でなければボランティアなんて本来つとまらない。だから実はとても贅沢な趣味だと私は思う。が、今の日本でそれを求めるのは絵に描いた餅だ。
…みたいなことはやる前から大体、想像はついてはいた。そもそも、コミュニティに参加して1年弱の人間に声をかけている時点で大分やばい。ということに中の人たちはあまり思い至らないみたいだった。お祭りだから誰でもできるなんて嘘にも程がある。スケープゴートを探している(そしてその自覚も説明もできない)時点でコミュニティとしてかなり末期だ。
言い換えると、ヒーローやヒロインを必要とする世の中は仕組みが終わっている、ということだ。
それでも踏み出したのは、出会った人々があまりにも素敵だったからということと、コントリビューターデイがとても楽しかったからである。セッションデイが主だとみんな思っていて、イベント的にもそうなのかも知れないけれど、私はセッションデイは結構どうでも良いというか、オンラインになっても良いんじゃ無いかなと思っている。でもコントリビューターデイは集まる意味があると思った。あの空間を再現できるなら。
コントリデイを2日泊まりがけでやるだけのCampならもう一回やりたいかもと夜明けの吉野家で朝定食を食べながら額賀さんと話したぐらい。
だから、本当に誰もやらないならやります、と。夫に11月まで土日も無いかもしれないと伝えて、スタートした。
そして1秒も楽しめなかった
だから、翌日の閉会スライドが全然出来てなかったにも関わらず、無理矢理でもコントリビュータデイの午前中だけ参加した。もちろんそれは楽しかったのだけれど、セッションデイは1秒も楽しめなかった。そんな余裕は無かった。これは完全に私の力量の問題なのだけれど、これだけ時間をかけてやってきて主宰が1秒も楽しめないなんて、そんなイベントまたやりたいと思うわけがないではないか。そこまでマゾじゃない。
ただ、閉会の挨拶の直後、写真を撮りに来てくれたトリさんの顔をみて、やって良かったと心底思った。そこから、あたたかなフィードバックを沢山貰って、安心したし、感謝ばかりだし、後悔もないけれど、次はもっと気楽でサスティナブルで、大好きな人たちと時間を分かち合うためだけでいい。そう本当のキャンプで十分だ、と思った。蝋燭はもうごめんだ。私は好きな人たちと焚き火を囲みたいだけなのだ。ゆっくり各々の薪をくべていく世界が好きなのだ。暗喩の伝わらない会話などしたくはない。