X(Twitter)を止めて2ヶ月が経った。とても快適である。
情報が入って来なくなるかなあと心配したけれど、いざ止めてみると、重要な情報であれば何にせよ最終的には嫌でも私に届く事に気が付いた。
そして私に必要な情報はそんなに多くもない。
大切な友人の投稿は多分いくつも見逃していることだとは思うが、どうしても私に知ってほしければ直接連絡があるものだし、どうしても私が知りたければ直接聞くか本人のタイムラインを見れば良いだけだ。他にはなんの問題もない、無さ過ぎて拍子抜けするぐらい。
止めた直接の原因はWordPressに関するMattも含めての「世界中」の好き勝手な物言いを見聞きするのに疲れたから、だと思う。
けれどそれはキッカケに過ぎず、実はこの何年も止めようとしていて、何度も挑戦しては止め切れずに戻ることを繰り返していた。タバコを吸ったことは無いけれど、その中毒性はタバコがやめられない感じと似ているのかなと勝手に妄想している。
止めてみたら「世界中」の範囲の狭さに気が付いた。そうだった、世界をつくるのも見限るのも私次第だ、というのをすっかり忘れていた。忘れていたというより見ないふりをしていた気はする。
Twitterの好きだったところは、自分のまだ言語化出来ていないふわふわとした思索やらわだかまりのようなものについて、誰とも知らないすれ違い様の捨て台詞が言い得て妙な言語化をしてくれるところだった。
でも年々と、言葉の一人歩きの速さも酷さも加熱して、インターネットの良く無いところを煮詰めてパッケージ化したような陳腐でタチの悪い冗談しかほぼ見かけなくなって久しい。たまにある玉のような言葉もそんな中に埋もれていると本当に色褪せてしまうものだ。コンテンツは変わらず王様ではあるが玉座が錆びついてしまっていては輝きも薄れてしまう。
そうして極め付けの騒動があって、ようやく今年の10月に卒業できた。もう本当に何度も失敗しているのでアプリを消したぐらいでは意味が無いのはわかりきっているため、モバイルからTwitterにアクセスできないように制限をかけたのが解脱成功の鍵だったと思う。
解脱とは書いたが、別に相変わらず煩悩まみれなのには変わりがない。代わりにリール動画にうっかりどハマりしている時間が増えただけかもしれない。上手にSNSと付き合っている友人、知人たちからすれば何を言っているのかと呆れ顔をさせてしまうような話かもしれないが、私にとっては大きな変化だ。
そこまでしなくても、という呆れたような声もあったが、文章でも口頭でも思い付いたらすぐ垂れ流してしまう残念な品性の人間には荒療治しかないのである。とはいえ全く言葉を紡がないというのもお喋りな脳みそには難しいため、たまにBlueskyで吐き出させて貰っている。
そこかしこに吐き出すことを制限したかったわけではなく、恐らくはタイムラインから自身を引き剥がしたかったのだ。
ということに気がついたのは、先日のState of the Wordで久しぶりにゆっくり話せた友人の言葉からだった。
「Twitterやめたんですか?じゃあ何を見ているんですか?」
そう、多くの人には「何かを見てる」という状態が当然になっている、令和の今。
齢70を超えた私の母でさえ、暇になったらYoutubeを観ているらしい。登録した好みのチャンネルの新着をすぐに消費してしまうので、新しいおすすめのチャンネルを教えてとお願いされる。次に帰省するのがちょっと怖い。
TVやNetflixで何かを観たら、その感想をタイムラインで探す。自分がほしい誰かの言葉を探している。
その方が脳が疲れないのかもしれない、養老先生が仰るように。誰かのナラティブに浸っている方がラクで心地いいのかも。そうして、紡がれなかった言葉は下書きに溜まって忘れ去られる。
世界が想像するこれぞTokyoという気後れするような豪華な景色の中、懐かしい面々にたくさんハグをして再会を喜びながら、ふわふわと言葉にならないままにそんなことを考えていた。
そんな中、サブライズで川上未映子さんが登壇された。実際にサプライズだったのかは知らないが私には完全にサプライズだった。アナウンスが英語だしローマ字で書かれた文字列では「あの」川上未映子さんだとは直ぐには気が付かなかった。
気が付いても何故、高橋文樹ではないのかという気持ちにしか最初はならなかった。贔屓の引き倒しだろうが何だろうが、きっと文樹さんのほうがより愉快なセッションになったはずだろうに、と思った。
ただ、彼女の語りは好きだった、言葉を大切にしている人の話し方だ。
やはりどこまでも、WordPressは言葉を紡ぐための、ブログツールだという事を彼女のお話で思い出させて貰ったような気がする。
マティアスの話でも、そうだった。
やはり、インターネットは言葉で出来ている。
State of the Wordに参加するかどうか、結構ずっと悩んでいたのだが、結果、参加してとても良かったと思う。
と同時に最後の花火を見たのかもしれないとも思ってしまったし、友人と呼べることが誇らしい人たちの晴れ舞台を見守れてとても嬉しかったし、横に座っていて欲しかった人のことを思い出して泣きそうにもなった。
そうして昨日、川上さんのサイトを見たら、懐かしさを感じてしまうコードで出来ていて、Warningが出っぱなしだったりしていてとても愛おしくなった。テーマは誰が作ったものだろうか。芥川賞作家を身近に感じられることがあるとは。今は、Warningを出ないようにしてあげたい気持ちでいっぱいである。
そして、彼女のように一本のブログでずっと、ではないが同じぐらいの時間、あちこちに書き散らしてきた私だけの言葉を思い出した。Twitterでなくても、140文字だろうと散文だろうと陳腐さには違いが無いかもしれないが、私の言葉を私が紡ぎ続けることは止める必要はない。
彼女の言うように、長めのテキストをじっくり書き散らしていきたいと思う。
ただ、ずっと縦書きのテーマをリリースしたいと思って準備してはいたけれど、もう別にWordPressで無くても良いか、とは思った。
自分の好きにしたいがためにわざわざWordPressを使っているのだから。
どんな食べ物も自分の好きに食べたい。
食べ物を冗談に使うのも好きじゃない。
もう、私だけの美味しいものを集めて好きに作ることに注力したいと思う。
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